どうも、長谷川元気です。
今回は以前担当させて頂いた患者様がふとした時に仰っていたことで、私の臨床感を思いっきり変えた出来事をまとめていきます。
その方は”当たり前”のことを、おっしゃっただけなのですが、医療者となった私にとっては、それを”当たり前”としていなかったのです。
そんな自分への反省も込めて、この記事を公開したいと思います。
では、ここからが本文となります。
ごゆっくりご覧ください。
「決定権を取り返したいのです。」
ある患者様がふとした会話の中で用いた言葉です。
その方は病に倒れ、入院を余儀なくさせられてしまいました。
そこでの生活はこれまでと一変して、身体的にも精神的にも不自由なものであったと容易に想像できます。
病で身体が思うように動かなくなって、日常生活において介助を必要とするようになれば、誰しもはじめはそう感じるでしょう。
その方も、例外ではなく、自分の身体が動かない現実をなかなか受け入れられずにいました。
しかし、周りのサポートもあり、時間が経過するごとに徐々に、その現実を受け入れ初めていきました。
医療者目線で言えば、「ショック期」からの「否認期」「混乱期」「解決への努力期」「受容期」という障害受容のプロセスを順調に歩んでいました。
(上田の論文より)
この時点でこの方はもう現実のことだけでなく、前のことをしっかりと見据えて行動するようになっていました。
そんな時にあの言葉が口からこぼれて来たのです。
以下、覚えている範囲でその方の発言を再現してみました。
「先生?私ね、病気になったことも、もちろん辛かったです。
なんで、私が?って。
でも、今となっては、そのときよりも今の方がいっぱい辛い思いをしています。
自分でなにかやろうと思っても、先生や看護師さんの皆さんからは
『お医者さんに確認してみますので、ちょっと待っててね』
と言われてしまう。。。
なんであなたが決めてくれないの?
なんでお医者さんに確認なの?
実際に私のことをそこまで診てもないのに。
そう思ってしまうのです。
先生、私ね、早く自分の意思で行動したいんです。
トイレに行くのも、散歩に行くのも、遊びに行くのも、退院するのも、全部。
私の人生なのに、誰かに"許可"をもらわないと生きれない。
大の大人にもなって。それがこんなにも辛いなんて。。。
体が不自由になったことより、今はそれが辛いです。
だから、先生や看護師さん、お医者さんが今持ってる決定権、その決定権を取り返したいのです。」
ここまでこの方の話を聞いて、私はなにも言うことができませんでした。
私は今までの自分の行動を反省するとともに、とてもショックを受けました。
『患者様主体の医療」を謳っていながら、この方の"想い"と向き合わずにリハビリテーションを施していたことに気付いたのです。
私はこの言葉を鮮明に心へ刻むとともに、宝物のように大切な言葉として記憶しています。
なにせ、病院のルールに当てはめ、リスク管理と称しながら、患者様の権利を剥奪してしまっていたのです。
そんな想いはなくとも、実際には患者様としては"権利を奪われた"と感じてしまうこのルールはなかなか残酷なものであると衝撃を受けました。
もちろん、治療上、そうせざるを得ない状況の方はいます。
しかし、そのルールを軽視し過ぎないように気をつけなければならないと感じました。
退院後、何をするにも許可を必要とする生活は誰しも送りたくないはずです。
ある程度の制約はあるにせよ、自己管理能力のある方に対し、安易に「お医者さんにも聞いてみて下さいね」と声をかけるのは、とても残酷な宣言となりかねません。
私はこの一件から、言葉のチョイスにより慎重になりました。
"医療者が発する言葉"は本当に重みがあります。
そして、その方の人生を左右する言葉が多いのです。
今回の件のように良かれと思って発した言葉ですら、捉え方によってはなんのためにもならず、むしろ残酷な宣言ともなりかねません。
病院に勤務してからよく使うようになった言葉には、特に注意をしてみてください(自戒を込めて)。
医療の世界の”普通”は、世間的には"普通"のことではない可能性が大いに秘められています。
この機会に是非、あなたが発している言葉がどんな意味を持つのか、どんな影響を与えてしまうのか、第三者目線で再評価してみてください。
もしかしたら、あなたも"医療従事者"に染まりきってしまっているかもしれませんよ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。