私は患者様の心を診る
2019年12月26日の金曜日。
こんな話を唐突に始めました。
臨床にて【私は患者様の心を診る】という考え方にいたった。。。
【私は患者様の心を診る】
理学療法士の世界では『手技』というものを身につけようと勉強に励む人がいる。
とても凄いと思うし、とても尊敬できる。
患者様にとっても、そんな人は"救い"となるでしょう。
いいなぁ〜
かっこいいなぁ〜
私もそんなことを想い、目指していた時がある。
— 長谷川さん@PTスーパーバイザー (@PTsupervisor) December 27, 2019
だけど、ふとした時、私は感じたのです。
「理学療法は病には勝てない」と。
例え神業を使えるPTでも、"死"には逆らえない。
"死"を相手にしたリハビリでは、手技なんて無力でしかないのだ。
— 長谷川さん@PTスーパーバイザー (@PTsupervisor) December 27, 2019
"死"という強大な相手に対して、私はどう立ち向かえば良いのだろう?
手技って結局誰のためにあるのだろう?
私は思いました。
"手技を学ぶ"ことは"楽をする"ことになるのではないか?
型に人を当てはめることで、自分が楽をしたいだけなのではないか?
と。
— 長谷川さん@PTスーパーバイザー (@PTsupervisor) December 27, 2019
自分の得意分野に持ち込めば、それは勝負もしやすい。
だけど、それでは目の前にいる人を救えなかった。
"命"と向き合うって難しいね。
医療ってなに?
リハビリってなに?
理学療法ってなに?
考えれば考えるほど、理学療法士でいる自分が嫌になった。
— 長谷川さん@PTスーパーバイザー (@PTsupervisor) December 27, 2019
そんなとき、
「入院中、あなたがそばにいてくれて良かった。あなたの手、あなたの目、あなたの声。あなたが私を思う気持ちは絶対に忘れないわ。まだ頑張らなくちゃね。」
そう、患者様から言葉をかけられた。
— 長谷川さん@PTスーパーバイザー (@PTsupervisor) December 27, 2019
それに対して、私は気恥ずかしかったから、おちゃらけて返答してしまった。
だけど、帰り途中から徐々にその言葉が私の心に響いてきた。
そして気づいたのです。
「私は身体ばかりみて、人をみれてなかった」と。
— 長谷川さん@PTスーパーバイザー (@PTsupervisor) December 27, 2019
それからというものの、手技の使い方が大きく変わった。
また、理学療法士である"自分"の捉え方も変わった。
それを機に、私だからこそできる、リハビリテーションを見出すことができた。
それが【心をみる】に至った経緯です。
— 長谷川さん@PTスーパーバイザー (@PTsupervisor) December 27, 2019
理学療法士が手技を学ぶことは悪いことではない!
まずはじめに言っておきたいのが、手技を身につけることは決して悪いことではありません。
手技の使い方を誤ってしまうことが悪いのです。
形式的な型に当てはめるだけの手技になってしまうと、それは、理学療法士のするリハビリテーションとは言えないのです。
理学療法士が理学療法士たる所以は、もっとほかのところにあると私は思っています。
そのキーとなるのが【心】です。
今回はその理学療法士が大切にすべき【心】の部分について触れていきます。
理学療法士=手技というイメージについて
学生時代から
「せっかく理学療法士になるなら手技の一つや二つ身につけて、プロを目指したい!」
「手技を極めてこの世界を駆け上っていく!」
なんてこと思っていました。
実習でもそういった手技に魅入ってしまい、指導者の指先ばかりを目で追っていました。
臨床に出てみても、最初はやはり手技、手技、手技。
手技をいかに身につけるのかをひたすらに考え、勉強会に行き、家族や友人、同僚にも練習に付き合ってもらいながら臨床に臨んでいました。
確かに、手技を通して身体のことを知っていくうちに、患者様が良くなっていく感覚がありました。
「俺でもできるじゃん!」
新人がよく陥る”過信”ってやつですね。
実習でコケた分、臨床への不安が強く、自分の実力に疑心暗鬼だった私は、この気持ちを隠すことができませんでした。
そんなお調子者だった私にも、当然のように壁が立ちふさがります。
それだけでは理学療法士としての役割を全うできなくなってしまったのです。
『死』の存在を知ったのです。
『理学療法士』と『死』
新人の頃には担当しなかった、いや、担当しないように配慮していただいていた”重病患者様”を担当したとき、私は医療者になって初めて『死』と向き合うことになったのです。
そんな私がまず抱いたものが【なにもできないという絶望感】でした。
いざ、重度の症状を呈している患者様を目の前にして、私がなにもできないことを知ったのです。
回復させる?
良くなる?
リハビリテーション?
どういうこと?
理学療法士?
どういうこと?
なにもできない。
なにもできない。
なにをしたらいいのかすらわからない。。。
これまで学んできた手技への自信と考えの甘さに愕然とした瞬間でした。
学生さんの多くの方は『理学療法士』と『死』の関連を見出すことができないかもしれません。
”理学療法士は身体を良くする仕事”というイメージが強いですもんね。
間違ってはいません。
本来の仕事内容はそうなのですから。
よく言われましたよね。
リハビリテーションとは、“リ”+”ハビリテーション”であると。
大辞林 第三版の解説によると、、、
ハビリテーション【habilitation】とは能力を獲得することの意
つまり、リハビリテーションとは、再び能力を獲得することを意味するのです。
そして、以前にも話題に挙げましたが、この『リハビリテーション』は、日本においてその本来の意味からさらに限局された”医療の世界でのみ”発達している言葉になります。
☟詳しくはこちらをご参照ください☟
”再び”
”獲得”
”医療”
これらの3つの言葉から想起されるのは「リハビリテーションがポジティブなものである」ということですよね。
そのせいもあってか、『リハビリテーション』と『死』は相反するものであるという認識が強くあります。
しかし、臨床現場に出て直面したのは『医療』であるが故の『死』の存在。
『死』から遠ざけるための『医療』ですから、その世界に属する理学療法士も、その瀬戸際に存在する仕事であると痛感したのです。
理学療法士は感情移入してはいけない??
【感情移入しすぎてはいけません】
多くの理学療法士の養成校ではそう習います。
しかし、『死』を前に感情移入しない人なんているのでしょうか?
例え僅かな時間だとしても、あなたと関わっている方が死ぬんですよ?
・・・
どうやら、良い医療従事者になるためには、そのスキルが必要なようです。
しかし、私にはできませんでした。
「身近にいる人が死ぬ。」
これがどれほど辛いものか。
私は上手く言葉にできません。
残された側にとってはその後の人生をも左右するほどのものとなります。
人によっては、『死』によって、ぽっかり空いたその穴の埋め方すらわからない。
その穴を埋めたくない。
そういう方もたくさんいました。
もちろん人は皆、生まれた時からの宿命として『死』からは逃れることができないことも知っています。
知っていながらも現実逃避をするのです。
普段は合理的に行動しているはずの人でさえも。
『死』のもたらす影響はとても大きなものです。
喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも。
いろいろな感情が入り混じることになります。
そんな『死』とも向き合うことになる理学療法士。
あなたはそのときどんな表情で、どんな感情で、どんな言葉を紡ぎ出すのでしょうか。
学生のうちから、こんなことをふと考えてみても良いかもしれませんね。
理学療法士の未来
医療費削減、診療報酬の引き下げ、増税、少子高齢化社会、、、
これから医療界に待ち受ける大波は、理学療法士をもろに押しつぶす可能性があります。
《結果を残せていない》
これは我々現役の理学療法士が犯した最大の罪です。
これからの理学療法士を背負って立つ学生さんのために、良い未来を描くことができていない現状を深く反省すべきなのです。
このままではこれから台頭してくるであろうAIやロボットにこの職を奪われます。
いや、むしろそのほうが良い面もすでに出てきています。
知識量、分析/解析、作製
この分野においてはもうすでに理学療法士の専売特許とは言えず、理学療法士として活用しはじめていますよね。
そのため、先日も触れましたが理学療法士の給料は近未来的に下がっていくことすら予測されているのです。
☟詳しくはこちらをご参照ください☟
こういった中で、どうしたら理学療法士として今後も働き続けることができるのか考えていくことも考えなければなりません。
そこでもキーとなるのはやはり【心】だと思っています。
理学療法士として働くときの”楽しみ”
繰り返しになりますが、私は理学療法士として【心】をみることにしています。
”理学療法士としての知識を持った”長谷川元気という”人”として患者様と関わっています。
それが『死』とも向き合う理学療法士としての役割だと思っています。
これから出会う”人”によってあなたの考えは大きく変わっていくでしょう。
私も変わっていくことでしょう。
そんな新しい自分の一面に気づくことができるのも、臨床という場で、多くの方と触れ合うことができたからです。
内容的には少し暗かったかもですが、理学療法士として働くなら、こういった”楽しみ”もあるということを知っておいてください。
『理学療法士』という『医療人』も『死』と対面する。
そんな時に必要なのはやはり”人”である。
自分という”人”をこれからも、育て上げていこう。
そのことを今回の記事では伝え、2019年最後の記事として締めたいとおもいます。
今年も1年拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。
来年も引き続き『リハぶっく』を、『長谷川元気』をよろしくお願い致します。